1948年(昭和23年)
花釜新聞1号発刊

毎週月曜日の発行で、購読料は月10円
1948年(昭和23年)3月1日 「花釜新聞」が産ぶ声をあげた。
1945年(昭和20年)の艦砲で印刷、発行手段をすべて失っていたが、遠く九州・八幡にいた三鬼隆氏の援助によって機械と活字を手に入れ、新聞発行にめどがついた。
三鬼氏は創業者金田耕郎と同じ花巻出身で金田の二歳年上にあたる。大正七年、田中鉱山に入社して以来、前後して20年間釜石に勤務し、付き合いがあった。旧知の間柄であった。
艦砲射撃による戦禍からたちあがり、復興への槌音が響くなかに釜石の発展を約束する花巻釜石線全通の世論喚起を目指す金田耕郎初代社長の決意による発刊である。
創刊号のなかで金田は「花釜新聞という題号を選んだのは、花巻と釜石を連想したものであって、その内包する意味は、鉄道釜石線の達成促進にあり、それによって地方文化産業の興隆を期したいというのが念頭である。もちろん新聞であるから釜石線促進一本調子で行こうという融通性を欠くものものではないが、政争や党閥あるいは野心家のために供することは断然排撃する」と、創刊にあたっての決意、編集方針の一端を述べている。
1980年(昭和55年)発刊 岩手東海新聞より一部要約
東海新聞1号発刊
花釜新聞が発刊された8ヶ月後、釜石線全通の世論喚起もひと段落したことから題名を東海新聞に変更する。
「釜石線全通達成の将来における東海岸こそ地方新聞としての活躍舞台であると考え、ここに岩手東海新聞と題號を変更するに至った」(金田)とある。


「花釜新聞」以来、題字には活字を使っていたが、同号から本紙創刊の恩人・三鬼氏の揮ごうした文字を使い始めた。